『アサッテの人』諏訪哲史(講談社)

アサッテの人
アサッテの人
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諏訪 哲史
講談社
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息抜き読書その2。「巻末付録」を含め面白く読めたことは確か。ただ受賞前後の評判が良かったので期待しすぎたのかもしれないが、ちょっと物足りない。これって生真面目な文学論なのでは。この物足りなさは、「アサッテ」が現実世界とは切れた「別世界」としてしか観念されていない点にあるのだろう。「アサッテ」は現実を覆す力あるいはその可能性を垣間見せる特異点ではない。単に「隙間」というだけでは、現実の補完物にしかならない。にもかかわらず「アサッテ」に輝きが感じられるとすれば、そこに本小説のトリックがある。「チューリップ男」が一人チューリップを実践するだけならば、それは何でもない。それが何かでありうるのはこっそり観察する者が設定されているからである。この構造は小説自体に当てはまる。朋子さんや叔父さんの「内面」は主人公を通じてのみ語られる。もし叔父やその妻が直接語り出す三人称の文体で描かれたならば、全くつまらないお話だっただろう。その危険性を回避するために、二人は抹消された。白日の下では凡庸な事柄も、秘密めかしてみれば光を放つ。しかし本当の秘密ならば、光が外に漏れることすらない。これを両立させる裏道として主人公による「小説」という設定が登場する。そもそもなぜ「アサッテの人」という作中「小説」が書かれなければならないのか、その説明はない。説明がないのは、それこそが手品のタネだからだ。「アサッテ」を支えるのが上記構造だとすれば、「アサッテ」はありふれた「アシタ」を隠すことで、現実からの「飛躍」を演出している。しかし本当は遠くに跳びたってなどいない。「アサッテ」は「将来」かもしれないが「未来」という雰囲気ではない。それが不満だ。