『いじめの構造』内藤朝雄(講談社現代新書)

著者の述べる理想社会の方向性は、個人の選択に負荷をかけすぎることになりそうな点が気になるけれど、原則としては賛同する。しかし本書全体が全て納得がいくものだったかというそうではない。この本の基になっていると思われる主著は別にあるので、そっちを読めばあっさり氷解する疑問なのかもしれないが、3点ほど。1)著者が提示する「モデル」の導出過程が不明。事例をあげてそれとモデルが合致することは一応示しているけれど、そのことは他の解釈(モデル)を排除することにはならない。新書であるためか、先行研究を検討しその再構成の中でこのモデルにたどり着いた、という筋道が読めない。2)先の指摘とも関連するが、著者独自(?)の概念で新しい理論を提示しているようにも見えるが、既に言われていること、もしくは常識的に知られていることに学術的名称を付け直しただけなのではないか、という印象をつい持ってしまう(ルビの振り方はうまいと思うが)。読んでいてたとえば「抑圧移譲」の話とどう違うのかわからなかった。3)そもそもこのモデル化は、いじめる側の「内面」に焦点を当てようと試みられている。確かにそれは後半の「対策」の話に結びついているので、有益ではある。しかし、いじめ方のレパートリーが多様であるということ自体に、私はそれほど「謎」を感じなかった。連想したのはデュルケムの『自殺論』で、内側から捉えるより地域比較や時代比較を通じて外側から捉えたほうがより有益なのではないかと私には思えた。特に「中間集団全体主義」として社会全体のいじめ構造に視野を延ばすのであれば、なおさら。