『資本主義後の世界のために新しいアナーキズムの視座』デヴィッド=グレーバー(以文社)

資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)
デヴィッド グレーバー
以文社
売り上げランキング: 38,478
まさか自分が「アナーキズム」とこんなに近いとは思っていなかった(笑)。何周遅れかわからないけど、グレーバー派になりそう。ただ若干の違和感がある。少し前に読んだ『アナーキスト人類学のための断章』とまとめての感想だが、「アナーキズム人類学」はあっても「アナーキズム社会学」はない、という指摘は興味深い。私自身はそれほど社会学自体に「忠誠心」があるわけではないし、社会学が実質的に国家の学であったことはその通りだと思うが、「こういう社会も可能だ」という想像力だけがテコになる「アナーキズム人類学」はやはり弱いと思ってしまう。社会学が対象とするのは、人びとの意識だけでは済まず、それを方向づける制度や構造といった概念を手放すことはたぶんできないのだ。だからもし人が資本主義的関係や国家を必要とする意識に囚われているのだとすれば、それを再生産する構造というか条件があって、それがいかに形成されたのか(またはどのように変えることができるのか)ということを考察の対象にしなければならないのだと思う。その点で、社会学はやはり「近代」という区分にこだわるし、段階論は支持できないとしても、たとえばインターネットのある社会とない社会で想像力の構成がいかに異なってくるか、という点に注目することになるのだろう。この点はグレーバーと見解を異にする。一方、本書で展開されている、全体理論からではなく実践からそれらをつなぎあわせていくという提案には深く共感する。別に「活動家経験豊富」というわけでもない自分がどうしてそういう考えに至っていたのか、よく覚えていないところもあるけれど、科学技術がどれだけ進もうが「知」が全てを網羅しつくすことなどできない、という覚悟というか開き直りには、大学生になる頃には達していたと思う。その一方で、にもかかわらず相対主義や不可知論にも陥らなかったのは、不当な現実や社会を変えたいという思いがあったからだろう。全てを知らなくても生きてはいけるし、逆にその程度の妥当性があれば適切な行動は選択できるはずだ。