『60年代が僕たちをつくった』小野民樹(洋泉社)

60年代が僕たちをつくった
小野 民樹
洋泉社
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1960年代に関わる回想というのは、有益だ(少なくとも私にとって)。しかも、60年代後半の大学生としての回想や高校生参加者の回想は見かけるが、大学闘争の主体となった大学生が高校時代どうだったのか、ということがわかる本はあまりないだろう。本書では60年代前半の高校の雰囲気が伝わってきてその点で読み甲斐がある。都立の「エリート」校という偏り(政治的にマセている)は確かにあるが、高校民青の機能とか、学歴主義批判の原点だとか、いくつか興味深い論点が浮ぶ。…などなど、上記の本書に対する高評価は、著者が嫌いな「情報」として判断した場合のもの。一冊の書物として「思想」的に受け取るならば、戯画化された「団塊世代ダメオヤジ」の昔語りといったところか。要するにひどい。たとえば、鵜飼哲に対する嘲笑はその「誤爆」ぶりもどうかと思うが(身近に事情通はいなかったのか)、非難の仕方が傲慢。大学教授が安全圏から政府批判をする、そのことの気楽さを指摘するのは仮に良いとしても、60年安保時の竹内好鶴見俊輔を引き合いに出して「辞職」を見習えと教え諭す。岩波社員(当時)がよく言うよ。本書でさんざん岩波書店の批判をしているわけだが、それならば、この著者こそ愚痴のような本を書く前に抗議の辞職でもすればよかったのではないか。あるいは、社員の「高給」が会社経営を危うくさせたとも書いているのだから、当然自身の給与は自主的に削ってもらったのだろうか。高額の退職金も全部受け取ったりせず、会社に返すか、あるいは「反戦の信条を手放さない」と自称しているのだから、反戦運動に高額カンパでもしたのか。曲がりなりにも集会や署名に参加している人間を「生ぬるい」と批判する一方で、では著者は何をしたのか。そもそも本書全体を通じて、著者自身の姿はきちんと描かれていない。親は映画・文筆関係だったようだが、その文化資本の特権性に対する自省はゼロ。60年代末の岩波(『世界』)をあれだけ批判しながら、なぜ入社したのかについても弁解はゼロ。「大学拒否宣言」した友人はいても、東大だ早稲田だといった価値序列を著者自身が疑った痕跡も乏しい。そして友人たちの「おじさん」化した写真は載せても、自分の面は晒さない。学生運動を主体的に担わなかったことは別にいいとしても、「毎日がお祭りで楽しかったね」だけではあまりに無責任ではないか。著者が非難する荒涼とした風景をつくったのは自分たちではないのか。「傍観者」という批判は先手を打って繰り込んであるとはいえ、「傍観者」ならば他者非難はほどほどにして冷静な分析と総括をすべきだ。本書の「60年代が僕たちをつくった」という整理はその通りだとしても、「60年代がつくった」ものをまるで「僕たち」の手柄であるかのようにみなしそれを元手に他者攻撃する姿はあまりに醜悪。「全共闘おじさん」の典型的退廃としか思えない。60年代にもし肯定的な遺産があるとすれば、それは先行世代に反抗したというだけでなく、自分たちの足場を問う作業が始められたということではないか。肝心のその作業に欠ける本書は、60年代的に批判されなければならない。